網走市内観光、網走監獄・北方民族博物館・天都山の半日コース

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網走に半日ほど滞在する時間があったので市内観光することにした。定期観光バスがあるかと思い調べたところ、路線バス「観光施設めぐり」というバスが網走バス(株)にあった。ただ、いわゆる定期観光バスのように、団体で決まったコースをバスで1周するというスタイルではなく、主な観光コースを定時にバスが巡回していて、乗り降り自由という形式であった。コースは、「網走バスターミナル~網走駅~刑務所前~博物館網走監獄~天都山(流氷館)~北方民族博物館」を往復する形になっている。よって、自分で行きたいところを決めて計画を立てなければならない。バスが待っていてくれるわけではないから若干煩わしいが、自由度があるとも言える。
なお、バス停に刑務所前とあるが、これは現在の本物の刑務所だから間違えないように。
今回は、バスで網走駅から「北方民族博物館」→(徒歩)→「天都山(流氷館)」→(徒歩)→「博物館網走監獄」と回り、網走監獄からバスで網走駅に戻った。ほぼ4時間の行程であった。

網走(国土地理院地図閲覧サービスより)

網走(国土地理院地図閲覧サービスより)

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網走駅から朝8時54分発に乗ってスタートした。バスは網走バスの「観光施設めぐり」だが、路線バスなので予約は不要。支払いについては、社内で普通に現金で払えば良い。なお、1日(2日・3日)フリーきっぷもあるがこれは事前購入が必要で、網走駅の場合は駅の向かいにある東横インで販売している。バス停は駅前にはなく、駅から見て左方面(西方向・写真だと右方向)に50mぐらい行ったところにある。

網走駅

網走駅

 

北海道立 北方民族博物館

第一の目的地は北方民族博物館で、網走駅からバスで14分ほどだった。
北方民族資料館は斬新なスタイルをしているが、全体は水鳥が羽を広げた姿を現し、入口の円錐形の形は北方地方のテントを模しているとのことだ。
ちなみに、65歳以上は入場料無料だった。

北方民族博物館

北方民族博物館

北方民族博物館は「北方地域の諸民族の文化とその形成に関わりの深い先史文化を具体的な資料を通して紹介。東はグリーンランドのイヌイト(エスキモー)から、西はスカンディナビアのサミ(ラップ)まで、広く北方の諸民族を対象とし、衣・食・住・生業・精神文化・文化の伝承などのテーマ別に構成している」とのこと。

何となく、北方民族という名称から、アイヌ文化の展示かと思っていたが、世界の北方民族の文化を紹介している。特に衣服は国ごとの違いが、その地域の動植物を利用しているため、様々な工夫と、地域ごとの違いが良く分かる。その他にも全く閉ざされた世界と思いきや文化が伝承していったのであろうことなど興味深い。

ほぼ40分ほどで1周したが、興味のある人には、まだ十分に時間を費やす展示物などがある。

天都山(オホーツク流氷館)

北方民族博物館からは徒歩で天都山に向かった。バスは北方民族博物館で40分ぐらい待機しているので乗ろうと思えば30分ぐらいで見学を切り上げれば乗れないことはない。なお、徒歩距離は820mで少しアップダウンがあるので15分ぐらいかかる。

天都山は山頂にオホーツク流氷館が建っているが、山頂となっていたところは流氷館より奥まった所にある。

天都山山頂(標高207m)

天都山山頂(標高207m)

オホーツク流氷館は、本物の流氷の展示や流氷下の生き物などを展示しているが、そちらには寄らなかった。目的は屋上展望台で、屋上までエレベータがあり、360度見渡すことが出来きる場所となっている。

オホーツク流氷館

オホーツク流氷館

展望台から北を向いて、すぐ眼下に網走湖があり、その先に能取湖を望むことが出来る。

オホーツク流氷館から網走湖・能取湖

ホーツク流氷館から網走湖・能取湖

南東方向には網走市街が見える。さらに先には知床岬も見えるときがあるそうだ。この日は少し霧が出ていて遠くまでは見渡せなかった。

ホーツク流氷館から網走市街方面

ホーツク流氷館から網走市街方面

博物館 網走監獄

天都山から網走監獄までは徒歩で移動した。距離が2.2㎞あるので30分ほどかかった。バスは頻繁にあるわけではなく、次までにかなり待ち時間があったので利用できなかった。なお、タクシーのようなものは全くいなかった。多分予約をしておくか、電話で呼び出す必要があるのだろう。
天都山から監獄までは直線距離は近いのだが、大きく遠回りするので結構歩き甲斐がある。

進んで行くと最初に見えるのが、駐車場の入口のゲート。ここから、博物館の入口は、まだ随分先になる。

網走監獄博物館駐車場入り口

網走監獄博物館駐車場入り口

次に博物館としての入口がある。展示物ではない。この左側に入場券の販売所がある。なお、65歳以上は半額だった。

網走監獄博物館の入り口

網走監獄博物館の入り口

網走監獄の正門。ここからが移設された旧刑務所の建物などの屋外展示物になる。

旧網走刑務所正門

旧網走刑務所正門

正門を入ると刑務所の庁舎が正面に構える。刑務所の管理部門用の建物だ。刑務所の始まりは明治23年だが、明治42年に刑務所内のほぼすべての建物が全焼して、現在残っているのは明治45年に再建されたものだという。
現在、この庁舎の中は、網走刑務所の歴史や背景などの資料を展示しており、ここを見学しないと網走刑務所の歴史を理解できないのではないかと思う。当時の近代的建築物の鑑賞や受刑者への感傷ではこの博物館の意義は語れないということが良く分かる展示となっている。

旧網走刑務所庁舎

旧網走刑務所庁舎

庁舎での資料の受け売りだが、網走監獄の歴史的意義の部分をまとめてみた。

●囚人となったのは、明治の初め国中が大きく揺れ動き、佐賀の乱や西南の役など各地で反乱が相次いだことで、「国賊」と呼ばれる時代の産んだ罪人が大量に出た。さらに度重なる戦乱で国民は困窮し犯罪を犯す者が後を絶ず国中の監獄はパンク寸前となり、この状態を解決するための刑務所を北海道に作った。すなわち、北海道に収容された者は、「いわゆる犯罪」に加担したものばかりではなかったということだ。
●刑務所の裏の目的は、北海道の開拓および北海道を植民地化しようとしていたロシアからの守りのため、廉価な労働力として囚人を使役することだった。すなわち開拓のために道を作るにはとんでもない費用がかかるが、囚人を使えば費用は安く済むし、悪人なのだから作業で死んでも悲しむ者もない、囚人の数が減れば監獄費の節約にもなる。そして、彼らが刑を終えたのち住み着いてくれたら人口が増えると、まさに一挙両得として囚人を使った。人権が軽視された時代の産物でもある。
●一方で、この労力が無かったら北海道の開拓はどうなっていたか、ロシアなどの外力に抗することが出来たのか、まさに北海道が現在あるのはこれらの苦役の結果と言っても過言ではないのだろう。ちなみに資料によれば、当時北海道に刑務所(集治監)が5カ所あり、収容人数が9,200人に及んだとのこと(網走は1,200人)。作った道路が724㎞(東京~岡山ぐらい)、開墾面積が17,410k㎡(北海道の面積の2割)というから、そのすごさが分かる。

北海道の発展のスタートがまさにここにあったということを庁舎での展示から知ることが出来る。

庁舎から各建物を回るコースに入る。展示ポイントが21カ所もあるので、けっこう時間がかかる。私の場合、全部回って1時間半ほどかかった。

下の写真は舎房、いわゆる収監される場所。上から見ると放射状に5棟があるが、外からでは良く分からない。

旧網走刑務所舎房

旧網走刑務所舎房

案内のパンフレットに上空からの写真があり、このような姿をしているようだ。

舎房を上から見たところ

舎房を上から見たところ(案内パンフレットより)

中に入ると、中央の見張り所を中心に放射状になっているのが分かる。非常に大きい、最大700人を収容できたそうだ。

旧網走刑務所舎房内部

旧網走刑務所舎房内部

雑居房の一角、吹き抜けのようなこのような場所で、どうやって冬の寒さを耐えたのだろうか。

旧網走刑務所雑居房

旧網走刑務所雑居房

この他にも様々な展示物があったが、省略する。

なお、網走駅の看板について「看板が縦書きなのは、網走刑務所で刑を終えた元受刑者が網走駅から故郷に戻る際、「この看板のように横道にそれず、真っ直ぐに歩んで欲しい」という願いが込められているということ」、その看板が下の写真だが、網走監獄に行かなかったら気づきもしなかっただろう。横のプレートに説明はあったのだが。

網走駅の縦書き駅名看板

網走駅の縦書き駅名看板

なお、網走監獄では監獄食を食べることが出来る。11時~15時30分(ラストオーダー14時30分)で提供されている。意外とおいしいという評判だが、刑務所を「ムショ」というのは麦6:米4の(ム・シ)からきているということが展示の中で書かれていたが、この監獄食が麦3:米7となっていたので、おいしいというのはそのせいかもしれない。

展示の中に、なぜか現在の「逮捕状」と「起訴状」があった。もっと煩雑なものかと思ったら以外にシンプルだ。見ることないように心がけよう。

当初、網走監獄にはさほど関心を持っていなかったが、今回行ってみて文化的意義に加えまさに歴史的事実を知る場所になった。是非訪問することをお勧めする。

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